国際港である門司にも、神戸、横浜のようなゴルフコースを!
明治39 年に神戸ゴルフ倶楽部開場、大正13 年にJGAが設立、大正15 年に関西ゴルフ連盟が創立された。
昭和初期の門司は国際港で、大連、青島、台湾その他から外国航路の船が沢山はいってくる大陸貿易の拠点であり、商業活動も盛んで人の往来が多く、門司の人々―特に貿易、海運業界などから横浜、神戸と同じようにゴルフ場がほしいという要望が高まってきていた。
昭和7年ごろ日銀門司支店長 君島一郎氏を中心に、三菱商事門司支店長 板倉勝温氏、東神倉庫(のち三井倉庫)門司支店長 藤林保氏、フジ電気 菅瀬一郎氏らが集まって、最初の建設計画話をはじめ、それに商工会議所会頭 出光佐三氏(出光興産創業者)、門司市長後藤多喜蔵氏、市会議長 中野眞吾氏が一緒になって、いよいよ具体化へと踏み出すことになった。
開場当時の特徴として国際航路の船客に門司ゴルフ倶楽部のビジタースカードを発行
開場当時は海外への渡航手段が船旅だった時代で、長旅に飽き飽きしている船客に対して、キャプテン(船長)とパーサー(事務長)にビジタースカードの発行をまかせた。
通常日はもとよりコンペのある日でも、必ずその中に加えてプレーできるように便宜を図った。それにより、しだいに門司に上陸する船客が増えて門司の繁栄と国際港としての向上に役立った。
昭和8年
松ヶ江を建設の最適地と決定。上田 治氏(広野ゴルフ倶楽部)に設計を依頼。
昭和8年9月8日付大阪朝日新聞付録九州朝日の紙面より

昭和9年
上田 治氏よりコースのFrame work plan が提示される。(下関要塞司令部の検閲が必要)11 月23 日、松ヶ江コース(9HS 3350 ヤード)開場。

昭和11年
プレーを楽しむ出光初代理事長、後藤門司市長、中野市会議長

昭和16年
朝香宮殿下ご来場の記念写真。初代倶楽部ハウス前に

昭和20年
戦中兵舎となり荒果てたクラブハウス

昭和20年
戦時中芋畑に変ったコース

昭和24年
米国陸軍第24 師団長マコーリフ中将よりゴルフ場復活の呼びかけがあり、復旧を決議。米国陸軍工兵隊の演習名目で、当時の日本では珍しいブルドーザーを使い復旧工事。

昭和24年
米国陸軍工兵隊ブルドーザーによる一気の復旧作業に度肝を抜かれる

昭和25年
9Hで再開の記念写真、クラブハウス“茅葺き屋根”も復旧

昭和25年
プレーを待ちわびたメンバー達が芋畑で荒れたコースに集まる

昭和25年

昭和25年

昭和25年
けな気にバックを担ぐ可愛い少年少女のアルバイトキャディー達

昭和25年
アルバイトキャディの募集に続々と集まってきた付近の小中学生

昭和31年
高松宮殿下を名誉会員にご推薦

昭和33年
関門国道トンネル開通記念にご来場
高松宮陛下、妃陛下

昭和34年
開場25周年事業出光佐三氏を名誉会員に推薦。会報誌“松ヶ江”を創刊。

昭和35年
チェコ出身の建築家アントニン・レーモンド氏の設計による二代目クラブハウス竣工。

昭和35年
新倶楽部ハウス竣工記念に御来場の高松宮陛下

昭和53年
JGA 日本学生選手権競技開催
前列右から優勝した金谷(日大)伍川(立大)堀越(成城大)羽川(専大)松永(日大)の各選手

昭和60年
昭和60年開場50周年記念式典で挨拶する第3代理事長安川寛氏
右下はJGA日本ゴルフ協会乾豊彦会長より贈られた銀盆

昭和61年
50周年記念誌「50年松江」

平成26年
国の登録有形文化財にクラブハウス南棟・北棟・スタートハウスが登録。
開場80 周年記念式典・行事 実行委員会

平成26年
第11回北九州オープンゴルフトーナメント開催
優勝 宮里 聖プロ